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ブルーハイウェイライン社史 前編

写真・文:idyllicocean
1. 創業初期の出来事
1969年(昭和44年8月18日)、資本金1億円をもって、東食、食品輸送、三井近海汽船、東京汽船の4社により、「日本沿海フェリー株式会社」として東京日本橋に設立。それに備え、この段階までに、1968 年当時から東京湾フェリーも加わり、荷動き調査、大型カーフェリーの船形や仕様細目の研究や航路選定、積み揚げ地港湾、フェリーターミナル建設交渉、運輸省への航路免許申請などの諸事情が地道に情熱をかけて討議された。
 当初の運行航路は「東京~苫小牧」で、1972年に新造大型フェリー2隻「しれとこ丸」と「えりも丸」の就航をもって営業がスタート、のち1973年には大洋フェリーより「ぺがさす」を用船し、3隻によるデイリーサービスもスタートした。1974年には新造第3船「さっぽろ丸」(後のさんふらわあさっぽろ)も就航し、同航路は3隻の新造大型フェリーによる毎日運行となった。しかし営業開始早々をもって、第一次オイルショックに遭遇、加えて、「長距離フェリー」による輸送というパターンがあまり知られていないこともあり、初期の営業は難を極めた。
 さて1975年には、1973年より開始されていた旅客フェリーによる「東京~苫小牧」航路デイリーサービスに加え、川崎近海汽船㈱との共同運行により貨物フェリー3隻による「東京~苫小牧」航路デイリーサービスも開始されることになった。使用船は「とまこまい丸」、「とうきょう丸」、「ほっかいどう丸」。これをもって同社「東京~苫小牧」定期航路は計6隻(毎日2便)による力強い海の幹線へと成長した。
 「東京~苫小牧」航路のデイリーサービスが実現したため、同社はJAL(日本航空)と共同で「SEA-AIR-SYSTEM」(フェリーと車と飛行機による北海道旅行セット商品・JAL MY-CAR PLAN)「ブルーハイウェイ」を開発した。このサービスは、日本航空・日本沿海フェリー・日産車両輸送の3社が連携し、旅客は空を、自家用車はフェリーで、苫小牧港から千歳空港までを日産車両輸送が担当するというもので、1973年の海空回遊割引許可に伴って積極的な販売を展開した。(1999年9月廃止)
 のち1983年には「大洗~苫小牧」の新規航路開設が計画され、翌1984年には運輸省認可も得て、当時「東京~苫小牧」航路に就航していた「さっぽろ丸」を大洗航路に転配、旅客フェリー1隻・週3便で大洗航路がスタートした。これに伴い東京航路の一般フェリーは一時減船された。
 1987年には15,000トンの大型新鋭船「おおあらい丸」(現さんふらわあおおあらい)が大洗航路に新造投入され、これに伴い「さっぽろ丸」は再び東京航路に戻された。加えて設立以来の旧型船「えりも丸」と「しれとこ丸」は売船、それに替わって大型新鋭船新「えりも丸」(現さんふらわあえりも)が建造され、「東京~苫小牧」航路に投入された。

2. 「さんふらわあ」の登場


さんふらわあ 11
 そのころ、照国グループの日本高速フェリーは、日本にも欧米のようなレジャークルーズ時代がくること見越し、超豪華高速フェリー「さんふらわあ」シリーズを次々に竣工させて一躍脚光を浴びた。第一船は「さんふらわあ」で川崎重工にて1972年1月に竣工、続いてほぼ同型の「さんふらわあ2」が5月に、「さんふらわあ5」が翌1973年3月に、「さんふらわあ8」が1973年6月にそれぞれ竣工した。新設の「名古屋~高知~鹿児島」航路には「さんふらわあ」と「さんふらわあ2」が、同じく新設の「東京~那智勝浦~高知」航路には「さんふらわあ5」と「さんふらわあ8」がそれぞれ就航した。
 翌年1974年9月には、「さんふらわあ」シリーズの最高峰ともいうべき「さんふらわあ11」が当時の費用で60億円もの費用を投じて建造され、新設の「大阪~鹿児島」航路に就航した。話によると同船を建造するためのプロジェクトチームは実際にカリブ海クルーズを体験し、設計の参考にしたという。
 そのようにして生まれたこの「ひまわり」マークの宣伝効果は大きく、このころから小学生がフェリーの絵を描くと必ずと言っていいほど「さんふらわあ」のひまわりマークを船体に描くようになり、名実共に「さんふらわあ」はフェリーの代名詞として受け入れられるようになっていった。

さんふらわあ 8
 豪華フェリー「さんふらわあ」の宣伝のため、日本高速フェリーはテレビCMも制作した。これに伴い増永直子作詞、渋谷毅作曲による「さんふらわあの唄」がレコーディングされ、船内でも入出港時に流された。「さんふらわあ」シリーズをかたどったプラスチックモデルも販売され、船内は一挙に海に浮かぶリゾートホテルと化した。当時一般的には全く考えられなかった長距離フェリーを使ったレジャーを切り開いた先駆け的存在として同社の残した功績は大きい。
 さてこのように、日本中を超豪華大型フェリー「さんふらわあ」で沸かした日本高速フェリーだが、営業開始直後より第一次、第二次オイルショックの影響でその営業成績はあまり芳しくなかった。豪華で大型のフェリー運航はそれだけ人件費やメンテナンス費用がかさみ、とりわけ閑散期の同船運行は赤字になることも多かった。この傾向は個人旅行客の飛行機利用が増えるに伴って如実に現れ、営業開始後わずか3年足らずの1974年、同社は「さんふらわあ」と「さんふらわあ2」の2隻の売却を考慮に入れるようになった。
 それで、このころ「東京~苫小牧」航路で厳しいながらも確実に営業成績を伸ばしていた「日本沿海フェリー」(現ブルーハイウェイライン)に、商船三井グループの一社としてこの「さんふらわあ」型2隻買船に関する話が持ち上げられた。

3. 「さんふらわあ」買船検討
かねてからの経営不振で苦慮していた「日本高速フェリー」から商船三井に対し、日本高速フェリーの社船「さんふらわあ」、「さんふらわあ2」の2隻を同じ商船三井グループ内で売船したい旨の意向が伝えられたのは1974年7月のことだった。商船三井では9月下旬からこの2隻の船体の調査や試乗を実施し、同じ商船三井グループ内でこれらを活用できるのは日本沿海フェリーであるとの結論を出した。
 理由としては、日本沿海フェリーの「東京~苫小牧」航路の集客成績が大幅に増進していること、「さんふらわあ」型2隻を「さっぽろ丸」と合わせ運行させることにより、旅客フェリーの均質化に寄与できる一方、右の3隻の運行により危惧される貨物スペースの相対的減少も、「東京~苫小牧」航路の貨物フェリーが就航すれば解決されることなど大きなメリットが考えられること。
 それで日本沿海フェリー内では慎重な考慮がなされ、両船を購入、運行したときのメリット・ディメリットがつぶさに調査された。結果として「さんふらわあ」型2隻の構造、運行の実情、経営面から見た特性などからみて、問題点として「さんふらわあ」は旅客を中心とする航路には適合するが、「東京~苫小牧」航路では、夏期はともかく、年間を通じての旅客の大幅な増加は期待できないこと、また乗用車についても同様であること、加えて車両後半の制限高さが3メートル80で積載トラックが高さ制限を受け、大型シャーシを主要貨物としている「東京~苫小牧」航路には不適当であること、買船船価40億円・改装費2億円としても、当時の現有船と比較して極めて高価となり、収益に重大な影響を及ぼすことなどが指摘された。
 その一方で、当時就航していた「しれとこ丸」、旧「えりも丸」は就航以来エンジントラブルが多発しており、将来にわたって安全運行に万全ともいえない部分もあったため、これがリプレースのチャンスではないかという見方も合った。
それで1974年12月、商船三井に対し「日本沿海フェリー」としては自社の立場と商船三井グループ全体の立場を併せ考え、「さんふらわあ」2隻の買船の検討を進めるが、1隻40億円として購入した場合、収支に及ぼす影響は甚大で、容易にその損失をカバーし得ない要因を秘めている。「しれとこ丸」、「えりも丸」をできるだけ高価で売却し、「さんふらわあ」2隻は商船三井との共有船とすること、また両船は将来、商船三井の持ち分を買い取る予定としたい旨、回答した。
これに対し、商船三井は種々検討の結果、結局「さんふらわあ」型の特性を最大限に生かしうるのは瀬戸内海航路であり、大洋フェリーで使用することに決定された。そののち「さんふらわあ」、および「さんふらわあ2」は大洋フェリーの運行のもと、「大阪~苅田」航路に就航した。

4. 「ブルーハイウェイサービス」の設立
1974年6月、東京港新ターミナルの完成に伴い、同ターミナル内の食堂、売店の経営を含めて、船舶の食料品、船用品の販売業務など、それに付随する一切の業務を目的として、日本沿海フェリー、フジフェリー、商船三井客船の各社が1,000万円ずつ東学出資し、払い込み資本金3,000万円で「株式会社ネプチューン」を設立した。これは従来の流通過程でグループ貝に流失した利益を吸収し、総合的メリットを図ろうとするものであった。設立後1年間、その経営の主体は商船三井客船に委託してきたが、本来の機能も発揮しえぬまま赤字を続けたため、「日本沿海フェリー」内で船内サービス業務を直営する方針を決め、商船三井客船がネプチューンの実質的な運営から手をひき、商船三井客船出資額の半分を肩代わりして、ネプチューン経営を主導して育成強化がはかられた。のちフジフェリーの申し出によりその持株1,000万円全額を「日本沿海フェリー」が買い取り、これを機に社名は「沿海フェリーサービス」と変更された。のち商船三井持ち分500万円も肩代わり譲渡を受け、全株式を保有することとなり、1991 年より「ブルーハイウェイサービス」改称されて現在に至っている。
 日本沿海フェリーでは営業開始以来、船内サービスや船内営業業務を商船三井客船に委託してきたが、1974年以降、サービス部員の船員は独自に直接雇用することが確認された。本来船内営業サービス業務は旅客営業の一環であり、自営切り替えに当たっては商船三井客船の仕事の踏襲ではなく、少数精鋭で効率化を図る必要があるとの基本方針が決まった。商船三井客船としては、長年に渡る客船業務の経験を生かし、航路サービス部門の運営に当たっていたが、フェリーの特性上、本船内の指揮系統の統一化が強く求められていた。結局、要員計画の策定と商戦につい客船からの移籍の取り扱いは1976年1月1日から実施された。その後、船内のサービス体制は旅客営業部、船舶部との連携がはかられ質的向上、加えて要因省力化につながる船内船内設備の改善などにもつながった。

5. 「さんふらわあ」シリーズ買船と社名変更
 1989 年初等、来島グループの日本高速フェリーから商船三井を通じて、同社が経営する「東京~那智勝浦~高知」航路の一般旅客定期航路事業に関する営業を譲渡したいという打診があった。日本沿海フェリーとしては、この航路の採算性・将来性などについて総合的に真剣な検討がなされた末、この引き受けは単に収益の向上に視するだけでなく、経営戦略上極めて重要かつ大きなチャンスであるという結論に達し譲り受ける方針を固めた。
 この方針により日本高速フェリーとの間で順次交渉が進められ、譲り受ける営業の範囲として「東京~那智勝浦~高知」航路の一般旅客定期航路事業、船舶「さんふらわあ 8」、補助ランプウェイ、人道橋などの付帯施設など営業が譲渡された。
 これに加え、1990年11月1日には、日本高速フェリーから「東京~那智勝浦~高知」航路に引き続き「大阪~志布志~鹿児島」航路の譲渡も受け、新たに「さんふらわあ 5」と「さんふらわあ 11」が同社の船体に加わった。これに伴い、同社は既存の「東京~苫小牧」航路、「大洗~苫小牧」航路、「東京~苫小牧」貨物航路に加え、「東京~那智勝浦~高知」航路、及び「大阪~志布志~鹿児島」航路を運行することになり、北海道から関東、関西、四国、九州の太平洋岸を結ぶ航路が完成した。また運行隻数も大型フェリー9隻となり、日本高速フェリー従業員全員の移籍によって、海陸従業員は620名強となり、総収益も総額250億円を超える規模に進展した。
 新航路の開設に伴い、1990年から1991年にかけて関係官庁、荷主など多数を招いて新航路の披露パーティーが各地で盛大に行われ、東京、那智勝浦、高知、松山、大阪、志布志、鹿児島などでそれぞれ一流ホテルを用いて新航路営業開始披露が行われた。
 この進展を契機に「日本沿海フェリー」は「ブルーハイウェイライン」(英社名 BLUE HIGHWAY LINE CORPORATION)と社名変更され、20年来一般に慣れ親しまれてきた「日本沿海フェリー株式会社」に代えて「株式会社ブルーハイウェイライン」が誕生した。「ブルー」は海、「ハイウェイ」は陸、明るい軽快な旅客輸送と海・陸一貫貨物輸送のイメージを、「ライン」は定期輸送のイメージを表したものである。これに伴い、社名ロゴ、シンボルマーク、ファンネルマーク、ベーシックデザインなどすべてが変更された。

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